審査員紹介

国久暁(くにひさ あき) 

1975年生まれ。岩手県出身。
高校時代に盛岡にて「劇団無国籍」を立ち上げ、中心メンバーの一人となる。進学に伴い活動を仙台に移し、無国籍を再旗揚げ。以来、殆どの作品の演出と、劇中の映像も手がけている。劇団外では、'00~'05年まで未来樹シアター、shang yuに役者として在籍。三角フラスコ#23「夜とピアノ」('06)に出演。その他、杜の都の演劇祭「東京日記」('08)ではプログラムディレクターとして参加している。劇都仙台2009第11回演劇プロデュース公演「はだか道」では演出家コンペに応募、採用され本公演に演出として参加した。また、大阪のインディペンデントシアターで行われる最強の一人芝居フェスティバル[INDEPENDENT]に’10年参戦。同劇団の俳優・菊田由美と脚本家の益岡礼智と共に、「ときどき沼」を上演している。その後、同イベントの地方版[INDEPENDENT:SND(仙台)]では、’13年に「無敵拳コマツ」、’15年に「パノラマ510(独唱)」でやはり演出として参加している。
現在、来年1月の無国籍公演「物騒な踊り場」を製作中。

 

●劇団無国籍
1992年、盛岡で市内の高校生により旗揚げ。メンバーの進学に伴い、’95年に活動拠点を仙台に移す。
劇団員及び、在仙の実力派俳優と共に、座付き作家・益岡礼智(ますおからいち)によるオリジナルコメディ作品を上演している。近年の作品に「第2シオタカガーデン」(’13、エル・パーク仙台  スタジオホール)「加賀山家のフムス」(’14、能-BOX)がある


赤羽ひろみ(あかはね ひろみ)

1987年生・長野県出身。2006年3月、桜美林大学 総合文化学群演劇専修に入学。
在学中はアーツマネージメント、舞台制作を専攻。地域の公立ホールへ関心を持ち、まつもと市民芸術館、三鷹市芸術文化センター等の制作部へインターンとして参加。並行して、2007年後半より範宙遊泳、柿喰う客など小劇場の劇団制作を経て、2009年1月、(有)ゴーチ・ブラザーズ・制作部に所属。制作助手として、故蜷川幸雄、串田和美、河原雅彦らの現場での経験を積む傍ら、2012年以降は、プロデュース公演『飛龍伝』(演出:中屋敷法仁/主演:玉置玲央、黒木華/下北沢本多劇場)や、若手制作者合宿『Next Producers Camp』(2012年5月/まつもと市民芸術館、2013年6月/りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館)など、自身の企画するプロジェクトも手掛ける。2015年に退職後、「蛙昇天」(演出:長塚圭史/せんだい演劇工房10-BOX)の制作部に携わったことをきっかけに、活動拠点を仙台に移す。2016年4月に、自身の活動母体としてentoo(読:えんと)を立ち上げ、俳優ユニット さんぴんの仙台滞在創作公演の実施や、人と演劇をつなぐプロジェクト「ENGAWA cafe」を実施し、活動の幅を拡げている。

大河原準介(おおかわら じゅんすけ)

作家、演出家、役者。1981年生まれ、仙台市出身。20歳の時に上京し、お笑いコンビとしてルミネtheよしもとで活動。2002年、桐朋学園芸術短期大学・演劇科演劇専攻に入学。2004年、同大学・専攻科に進学。2006年に修了後、演劇ユニットG.com(主宰・三浦剛)に演出助手として参加。2007年より演劇企画集団LondonPANDAの作・演出として活動開始。これまでに9本を上演。全作品で作・演出を担当。2015年5月~12月の期間、ロンドンに遊学。ウェストエンドミュージカル、ナショナルシアターなどの大劇場はもちろんのこと、アルメイダシアター、ザ・ヤード、ヤングビックといった数々の小劇場に足を運び、世界の演劇を体感して帰国する。2016年より活動拠点を地元仙台に移転。
■出演作品■(映画)
『日本の裸族』(2004年公開作品。出演:阿部サダヲ、今奈良孝行、松尾スズキ 他。 監督:奥秀太郎)
『赤線』(2005年公開作品。出演:中村獅童、つぐみ、荒川良々、小松和重、野田秀樹 他。 監督:奥秀太郎

審査員講評

全公演終了後、総評1000文字以上、各団体への講評200文字以上という形での執筆を依頼いたしました。そのため、審査員毎に文字数に多少のばらつきがありますが、ご了承ください。

国久暁

 総評

自分が若い時には感じなかったが、若い人が演劇を志すというのは、尊いことだな、と思うようになった。生身を晒さなければならない強めの表現活動であるが故に、否応なくできない自分と向き合わされるし、そういう意味では孤独なのに、同時に総合芸術だから人と作るという協調性も求められる。SNSやゲームなど、いろんなメディアでどんな欲求も満たされる現代に、こんなアナログでめんどくさい表現方法を、意識的にしろ、無意識的にしろ選んでいるのは、稀有としか言いようがない。

しかし、だからといって、のんべんだらりとやられては困るのである。
4つの団体で共通して感じたのは、脚本の練り上げが足りず、至るところおろそかにされたまま上演されているという印象だった。作品の核である脚本に、役者やスタッフなど、各方面からのツッコミが入らず、板に乗せられているように見える。学生演劇において、団員それぞれの演劇経験に大きな差は無い、と言ってしまうと乱暴かもしれないが、結局は作家も演出も役者もスタッフも未熟な状態と言えるだろう。スタートラインの横一列に並んでいるのだから、作/演出一人の感性に頼るのではなく、互いの感性をぶつけ合って作ったものが観たかった。もちろん最終的なジャッジを下すのは演出の役割なのだが、そこに行き着くまでの試行錯誤がどれだけあったのかは、作品の深みとして現れるだろう。時間がない、資金がないなどの言い訳はあると思うが、いろんな方法でこだわりを見せることはできる。照明、音響、装置、衣裳、もっとこだわる余地はたくさんあるわけで、そのための手段を、この先是非学んでほしい。
参加した学生さんたちと話してみて気になったのは、「演劇」から派生する興味の方向がよく見えないということだ。もしくは、自分が張り巡らせた嗜好のアンテナの先や中継点に演劇があるものだと思っていたが、その嗜好自体が見えてこない人が多かった。もっと自分の外の物語に興味を持ってほしい。身体メソッドの研究や演劇史、演技論、演出論の勉強でももちろん良いのだが、その前に単純に世の中に溢れる作品を観て、吸収してほしいと思う。知らなければ、自分たちのやっていることがどういう質なのか、新しいことなのか古いことなのかも判断がつかない。今回4つの団体を観て、どの作品もある種の既視感を覚えるもので、想像の枠を出るものが無かったのが残念だった。演劇には無限の可能性がある。「舞台は観客を圧倒しなければならない」とは、優れた照明家である友人の言葉だが、まずは自分が「舞台に圧倒される」体験をしてほしい。それにはたくさん観て探すしかないのだが、そういう舞台といつか出会ってほしい。そうやって自分たちが足を突っ込んだ演劇というもの、生きているこの世界にある物語を、もっと知ってほしいと切に思った。

そういうわたしも、まだ学んでいる途中です。続ける限り勉強は続くと思っています。エラそうに上から目線でいろいろ言いましたが。
皆さんとは、同じ舞台を作る仲間として、いつかどこかで再会できることを願っています。

各団体講評
演劇処A定食
開演前と終演後に、本編の伏線を踏まえたパフォーマンスを入れていることは、舞台の全体的な構成についての演出家の意図を感じた。脚本の起点となったアイディアは良かったと思う。が、それだけで、結局何がしたかったのか、黒衣(くろご)の動機は何なのか、あまり気持ち良い手応えが返ってこなかったのが残念だった。黒衣をはじめとする「舞台のお約束」を逆手に取ったトリックだったが、伏線であるはずの「転換」や、小道具の見せ方がキレイでないことが、観る側にストレスを与える。照明や音響効果が少なく、後半になってやっと使われる印象だが、前半に伏線を見せる効果としてこそ使われるべきだったろう。登場人物が多い舞台で、あどけないくらい若い役者がまぶしかったが、一人二役を演じる必要性、配役のバランスにも疑問を感じた。4団体の中で唯一、演出家志望と明言した演出であったので、今後是非、経験を重ねて成長していってほしい。

青森大学演劇団「健康」
主人公がサラリーマンということで、学生がまだ未知の世界である社会人を描く、挑戦的な設定であると思った。就活中で身近に感じた今の時期だから書きたいという、良い意味での作家の「欲」なのだろう。外回りの同僚二人が公園で休憩している風景は、会話の流れ、空気感などリアルなものがあり、楽しめた。場面設定も、ワンシチュエーションですっきり描けていたと思う。しかし、サラリーマンの設定に掘り下げがないことと、後から現れてくる幽霊の女性との関係の展開については未熟さが滲む。「サラリーマンである」ということだけで、その背景はステレオタイプであり、物語の中の「社会」が感じられない。学生にそこまで要求するのは酷かもしれないが、書くからにはそれなりにリサーチしてほしかった。女性は幽霊であることが観ていて気付けてしまうが、それが帰結に使われてしまう。幽霊であること以外の展開、もしくはわかった上でのもうひとひねりが欲しかった。女性の衣裳コンセプトにも疑問が残る。綺麗に着飾ってほしいのではない。DVを受けていたという女性の背景から浮かび上がる、違った扮装があるのではないかと思うのだ。ともあれ、会話の面白さや小道具の使い方など、そこかしこに芝居のセンスは感じた。今後も演劇は続けていくという、彼らが社会人になってからの、作品世界の展開に期待したい。

東北学院大学演劇部
舞台設定にまず、疑問を感じた。運転手と登場人物が1対1で話すことでしか、物語が進まない「面談室」では、自然座り芝居になってしまうし、その上、「ひとつの魂が生きた、3通りの人生」という物語のため、一人が出ていると、残りの二人が現れる余地がない。また、同時に3つの話を進行させる構成になっていたが、各々のシーンを暗転で繋ぐため、いちいち集中が途切れてしまう。脚本の価値観にも疑問を感じる。3人目のグレて早死にした男の人生が、転生できない悪い人生として扱われるのはいかがなものか。書く上では、社会問題や多様な価値観をもっと知る必要があるだろう。そうでなければ、人間的価値観と全くかけ離れた基準で転生が決まるくらいの、想像力が欲しかった。役者には、舞台上の存在感というか、佇まいが良いと感じる人がいたが、小道具、衣装コンセプトなど、もっと検討する必要があったろう。作・演出との議論が不十分ではないかと思えてしまう。とても真面目に作っているが、作品に対しての葛藤や覇気がどこか希薄であった。彼らの「こだわり」や「好き‼︎」を追求した舞台を観てみたい。

新潟国際大学演劇部
特色としては、全体に照明や音響の効果をよく使い、アクションが入るなど、「作りたい演劇」の方向性、演出の嗜好が見える舞台だった。しかし、意図しないウケが出てしまったのは、作品の意図と出来に決定的なズレがあったと言えるだろう。「大学生の友人関係」と言うテーマに、ファンタジーを織り込んで風呂敷を広げているが、その範囲があまりに小さい。そしてそれを、ものすごく大げさにたたんでしまった。これらの取り合わせのアンバランスさが絶妙だったのだが、本人たちがそこに気づいていたら、あれほどはウケなかったかもしれない。作品としては、実に道徳的で予定調和なわけで、それだけに役者の感情の流れに無理も生じていた。舞台上で起こっていることが、役者体を通じて伝わってこない。場面設定にしても、舞台上にずっと長机と椅子が置かれていたが、ワンシチュエーションなのか、場転しているのか、具体的にそこがどこなのかもわからなかった。作家も兼ねている演出家の、「脚本に書いたのだから、舞台上にも現れているはずだ」という思い込みが、客観性の邪魔をしているのかもしれない。ともあれ、嗜好がはっきりしていることは、今後の作品追求には良いことだろう。SNSの機能をそのまま物語の展開に生かした発想は面白く、逆に作用してしまったとはいえ、曲や照明の入るタイミングは単純に良かった。たたみ方にこだわりたいなら、もっと大きく風呂敷を広げればいい。広げるためのいろいろな世界観を見つけてほしい。

 

赤羽ひろみ

総評

 

まず、この「とうほく学生演劇祭」の実施並びに、その実行委員会の皆様に敬意を表したいと思う。自身の学生時代を思い返しても、ついつい自分たちの創作の”発表会”にとどまってしまうことが学生演劇(ことに大学演劇)に多いように感じているからだ。(もちろん全てがそうだとは思っていないし、意識の高い学生演劇にも数多く触れてきたつもりだ。)だからこそ、一般のお客様の目に触れることを前提としたこの取り組みに敬意を払い、実行委員会が目指したであろう高い志を自身の思考の根底に置きながら、審査員として向かい合おうと思った。


総評として。

感性を磨くこと、と、手法を学ぶこと、と、己の責任感(時に志の高さと置き換えられるかもしれない)に尽きるかなと。

感性に関しては、各団体の作家・演出家にそれぞれ原石のように光るものを感じ、各々の魅力を感じた物事の探求に関しては、各自今後も自身の視座のもとにより進化していってほしいと心から願う。

 

今回特に触れたいのは、手法を学ぶことと、責任について。

 

まず手法について。役者も演出家も、自分の表現を疑い、取捨選択をする中で、本当に作品にとって必要な要素を選んでいくことの大切さ。作家の組み立てた戯曲という設計図をより鮮やかに具現化するために必要な手法は何であるか。これは諸先輩方の作品から良くも悪くも学べることであり、そのリスペクトや反骨心に裏付けされる手法は、より強く受け手である観客に届くものになると思う。
そして責任について。我々は作品を一度作り上げて完成なのではなく、そこにお客様が居て、1回1回が常に意図することを届け続けなければならない本当に途方もなく大変な責任を背負うことになると思う。一度たりともゴールのパーセンテージを落としてはならないプレッシャーに勝ちうるのは、稽古しかないのではないか。稽古に裏打ちされる自信こそが、舞台に立つ俳優としての責任、舞台を統括する演出家としての責任につながるのではないだろうか。同じ空気感を分かつお客様はとても敏感に、総合芸術である舞台作品をビビットに感じ受ける。それはセリフを話している有無に関わらず、その空間を作り上げるすべてのものごとを受け取っている、ということを改めて考えてもらえればと思う。

最後に。

将来どのような道に進むか、それぞれの進路が参加者一人一人の前にあるだろう。

演劇を仕事にしない選択をする人も何人も居ると思う。

けれど今回は、同じ舞台芸術を扱う良きライバルとして、パートナーとして作品を拝見させていただいた。10年後に立っているフィールドが違っても、この瞬間に共有した空気はかけがえのないものであることを願い、自分にも皆さんにも恥じぬ決断と意思をお伝えすることが皆様への敬意と、舞台芸術のさらなる発展につながることを信じて。


各団体講評

演劇処A定食

全体の空気感の良さは参加団体中一番であったと思う。だからこそ、その”空気感”という危ういものに作品が左右されすぎて、仕上がりにムラが出てしまったのではないだろうか。戯曲の設定の面白さを立証するには、黒子に扮する裏方の存在が際立ってこそだと思う。もっともっと動きをブラッシュアップし、研究してほしい。ロビーなどで語らっている女優陣があんなにもキラキラしていられるのだから、もっと舞台上でも輝き、輝かせることができるはず。

 

青森大学演劇団「健康」

ワンシチェーションという、ただでさえ舞台上に存在している人物の力量が問われる難しい設定にきちんと向かい合えていた力作だった。限られた登場人物の一人一人が、きちんと舞台に”存在”できていたことに、拍手を送りたい。ただ、脚本の弱さの改善(おそらく観はじめて数分で客席の大半が先の展開を想像できてしまっていただろう)観客をさらに惹きつけ(もしくは裏切る)ためのもうワン・ツーアクションと、女性の役作りと描き方にもう一工夫を望みたい。


東北学院大学演劇部

舞台美術の空間の使い方に工夫を感じたが、その工夫が”魅力”に変わるまで届いていなかった。そこには、作家にも、演出家にも、役者にも、もう一つ“こだわり”が不足していたのではないだろうか。役者一人一人の演技の方向性に関してもそう。自身が周りの人々に影響を与えて相乗効果を生み出していただろうか。戯曲という全体の中で役割を果たさないと、時にそれは煩わしいだけの存在になってしまう。演出として何を見せたいのか。大きな流れの中での要素として魅力を創出することを考えて欲しいと思う。

新潟国際情報大学 演劇部

作家が自身の興味の方向性をきちんと追求した作品だったと思う。

ただ、やりたいこと を実現するための手法 は、本当にそれでよかったのかの検証は足りていただろうか。お客様は、 やりたいこと を見に来るのではなく、そこに舞台芸術作品という時間と空間を求めてやってくる。そこに自信と責任を持って提示できる作品を仕上げるためにはもう少し多角的(別の角度から見つめ直す)に作品を捉える作業が必要であったように感じる。

大河原準介

総評

 

自分自身、大学時代は「演劇科」なるものに籍を置き、大学の演劇サークルという文化自体に馴染みがあまり無い。なので、演劇サークル・大学演劇部はどこを目指してやっているのか、皆目見当が付かないのだ。今回出会った4団体からはただ単純に「演劇は楽しいものだ」という思いで取り組んでいるように思われた。そういう人たちに対して、批評することはどうなんだろうと思ったりもする。草野球の人たちに「今のボールはもっと内角を抉らないと意味が無い」とか「1番を任されてるんだから、50m5秒台じゃないと」と言わないのと同じ論理だ。

しかしながら、参加団体は「批評される」ということを敢えて望んだ4組だ。語弊を恐れずに言えば、ただ楽しむだけで良しともされるサークル活動・部活動にも関わらず批評される演劇祭に挑んだ4団体に対して、敬意を表すると共に、こちら側もきちんと真正面から思ったことを伝えたいと思う。

 

全4団体を通じて言えることは、やはり演劇というものがまだ特別であり、舞台に立つという意味を捉えられていないと見受けられた。どのようなスタイル・形式で演劇を創っても構わないが、「舞台に立つ」「人に見せる」「演劇を創る」ということが、どこまで意識されていただろうか。どこまで追求されていただろうか。役作りを行ってそれを「演じる」こと自体、実は簡単なことだ。だが、舞台の上で「存在する」ことの難しさを考えたことがあるだろうか?と疑問を抱かざるを得ない。

 

作・演出を務めた4名に聞きたい。皆さんは、どこまで自分の描きたい世界をどこまで俳優陣に伝え、理想とする舞台を構築出来ただろうか。俳優陣・スタッフ陣から求められたら、自分の論理・正解を言えただろうか。あくまで僕個人の見解だが、似非デモクラシーで芝居を創るのは難しい。どこまでエゴを、しかも周りを魅了するエゴを提示出来ただろうか。

勘違いして欲しくないが「エゴイストであれ」と言いたい訳では全く無い。

ただ、出演する俳優の個性を引き出し、スタッフとテクニカルで連携しながら、自分の想像を超えた大輪の花を咲かせるのが演劇創作の醍醐味とも言えるのではないだろうか。そのためにはまず、種となる自分の中での作品の理想像が必要じゃないか、と言いたいのだ。その種がはっきりとは見えてこなかったのが残念だ。

 

自分もまだまだ勉強する身であり、知らない演劇は世界中にある。参加された皆さんも、学生のうちに、あと一歩、演劇の世界に足を踏み入れてみてほしい。演技とは何か、演劇とは何かをもう一度考えるきっかけに本祭がなるんだとしたら、講評した自分としても嬉しい。



各団体講評

 

演劇処A定食

ミステリーをベースに描かれていくコメディだが、軸となるアイデアを成立させるためのシーンが多く、本題が見えてこなかったのが残念。メタ演劇自体、決して新しいアイデアでは無く、次世代の担い手にはその一歩先を求めたい。演劇そのものをトリックに使うとわかってからの展開にもっとスピード感が欲しかった。演出面で言えば、俳優陣の演技プランがバラバラでまとまりがないのが一番残念な点。作・演出を務めた鈴木あかりさんは、(現時点では)おそらく作に専念したほうが精度の高い戯曲を創れると思われるので、それを3次元にどう具現化するのかを考える演出家を別に立てた方が良い。青年役の黒沼義弘くんは器用で好印象だったが、その素材を活かし切れていないのも勿体なかった。次回以降、演出でリードする人材の登場に期待したい。

 

青森大学演劇団「健康」

4団体の中で一番安定感があり、作品のクオリティも悪くはなかったが、東北代表として全国大会に送り出すにはまだ物足りない部分があったので、奨励賞という形を取ることにした。その部分とは、戯曲の骨の細さ、会話の精度、演出イメージの乏しさが挙げられる。東北を代表して、全国の舞台で上演するのであれば、もっと骨太な戯曲を、痺れる空気感のコミュニケーションを、戯曲を最高の状態で舞台に上げるための様々なアイデアが欲しい。とはいえ、作・演出の村下直光くんが選ぶ言葉のセンスは光っていたし、会話も4団体で唯一出来かけていた。俳優賞を受賞した岡本遊馬くんは21名の全団体出演俳優の中で最も滑舌が悪いのだが、纏わりつく空気が一番面白かった。その空気を自分の個性・武器にするにはもっと多くの経験や稽古が必要かもしれないが、青森に岡本くんという俳優がいることを忘れずにいたい。

 

東北学院大学演劇部

一人ひとりの演じるスキルはあるが、会話は噛み合っておらず、登場した4人がそれぞれ一人芝居を行っているような状態になってしまったのが勿体なかった。滑舌良く、聞き取りやすい大きな声で演じることよりも大切なことは、舞台上で共演者とも観客席とも空気を共有し、コミュニケーションを作り出すことだ。その上でこそ、役者のスキルは輝くもの。戯曲も展開が想像できる範疇に収まっており、裏切りも起伏も無く、ただ流れていった印象で、45分に収めることで手一杯になってしまったのだろうな、と透けて見えてしまうのが残念。演出は残念ながら稚拙の一言。もっと多くの作品に触れ、自分たちがやりたい芝居を見つけ出してほしい。奮起してくれることを心から祈っている。

 

新潟国際情報大学演劇部

評価が最も難しい団体になった。こんなにも本気でやっているにも関わらず、ことごとく笑いになってしまったケースは珍しい。彼らが描きたかったものは演劇である必要性が無く、戯曲も少年誌程度、それを大学生が本気で描こうと声を張り上げてやるのだから、観客席が笑いに包まれるのも無理はない。間違いなく、4団体で一番笑ってしまった。自分でも嫌になるぐらい辛辣になってしまうが、笑わせていたのではない、君たちは笑われていたのだ。傷付けるのも承知でその事実を書く理由はただ一つだ。君たちが開き直り、自分たちの本気がギャグとして届くことを受け止められれば、どこよりもくだらない、笑える演劇を創れる可能性があるんだということを伝えたい。使用する音楽も、演技のスキルも、そそそそそんなこと!って実際に言わせてしまう演出も、テーマの掘り下げが出来ていない台本も、そのままで構わない。

余談だが、自分が芸人だった時はいつも、笑われているのか笑わせているのかを悩んでいた。答えは今も出ていないが、観客席が笑いに包まれ、面白かった!と言ってくれるならそれでいいのではないだろうか。そんな劇団・演劇部があっても良いと思う。観客席に笑い以外の何かを届けたいなら、演劇も映画も漫画も小説も音楽もテレビもネットもお笑いも、様々なジャンルの表現にもっと触れてほしい。新潟から仙台に来て、演劇みたいなことをやっただけで満足しないで、次のステップに進んでくれたらこの講評を書いた意味がある。次の作品を期待している。