審査員紹介

鈴木拓(boxes Inc.)

宮城県仙台市出身。高校演劇を経て、舞台監督、制作として活動。2000年演劇企画集団きらく企画を立ち上げ。東京国際演劇祭参加。演劇空間GalleryOneLIFEを運営。2008年杜の都の演劇祭プロジェクトに参加。東日本大震災を機に設立したArtRevivalConnectionTOHOKU初代事務局長。東北の舞台芸術の活性化を目的に2012年よりboxes Inc.を設立、同代表。ON-PAM副理事長。

瀧原弘子(三角フラスコ)

1976年、仙台市出身。三角フラスコ代表。俳優。1995年に生田恵らと三角フラスコを結成。ほぼ全ての作品に出演している。1999年より舞台美術も担当。
一人芝居『はなして』(
2011年初演)は、これまで仙台・大阪・東京・札幌にて上演。
外部出演作に満塁鳥王一座『ヌノ』(
2001)、杜の都の演劇祭『見えない人間の肖像』(2008)、すんぷちょ『ひゃくねんモンスター』 (201220132015)など。

長谷川孝治(弘前劇場)

劇作家・演出家。1978年劇団「弘前劇場」結成。すべての作品の劇作・演出を担当。1996年第1回日本劇作家協会最優秀新人戯曲賞。現在NPO弘前劇場理事長、青森県立美術館舞台芸術総監督。日本国内及びドイツ、韓国、中国での作品上演や演劇ワークショップなどを多数行う。演劇以外に大林宣彦監督の最新映画作品、「この空の花火物語」「野のなななのか」の原作を担当。著書に「戯曲集弘前劇場の二つの場所」(太田出版)「弘前劇場の30年」(寿郎社)「さまよえる演劇人」(無明舎出版)他多数。

審査員講評

総評

○鈴木拓氏

 全体の印象として、舞台に対して勉強不足であるように感じた。この作品 で何をしたいのか?伝えたいのか?なにを目指しているのか?漠然とではなく具体的に、間違っていても最も自分たちが楽しくやりがいのあるコンセプトをはっ きりと定めたほうが良いと思う。故に強烈に好き、楽しいが感じられる作品が少ない。最初は誰でも模倣から始まるが、様式や型に囚われない若い世代の拘りを もっと観てみたかったと思う。自分たちの知識や技術の現状把握をしっかりとし、使える個性を最大限効果するような果敢なチャレンジを望む。

 以下は具体的な気になった点。

・開演と終演のつくりかたが雑すぎる。導入と着地点は舞台芸術では大事な部分なので丁寧に。

・俳優の舞台上での立ち方、居方が出来ていない。これは単純な知識、技術からはじまることなので、要訓練。

・時にはオリジナルではなく、既成の脚本を用いて自分たちのスキルを確認することも大事。・上演45分間、限られた照明・舞台装置、時間などの制約の中で、選んだ作品が一番効果する方法論を見つける作業をした方が良い。

・演出家を信頼できていないカンパニーが多いように見受けられた。特に演出プランなどは合議制で決めたりしないように。

  運営側への評価としては、審査基準はある程度設定をした方が良いと思う。基準によっては大賞が変わる可能性も大いにあるし、学生演劇祭がなんのために?、 今後どうなっていくのか?という指針にもなるからだ。全体的な運営の稚拙さもまた学生企画の味だと思えるが、もう少し丁寧且つお客さんに寄り添ったプラン を考えて欲しい。継続していくための組織・仕組み作りも気になる点だった。

 何はともあれ、東北の地でこれほど若者が演劇に興じている様 はとても嬉しく感じられた。演劇を続けるみなさんは、世界中色々な作品を観て、演劇の歴史を勉強してほしい。演劇、舞台芸術にかかわらず、世界中に溢れて いる表現を知ることは、今の時代チカラになると思う。情報が溢れている分、個性を見つけるのが難しい時代だとも言えるが、これからの東北を担う世代の力を 見せて欲しいと思う。もし卒業して演劇とは違う道を歩むみなさんは、演劇を愛し続ける観客であって欲しいと思う。創り手側の思いも共有出来る一観客とし て、これからも舞台芸術を支える一員であり続けて欲しい。





○瀧原弘子氏

  大事なのは「これでいい」じゃなくて「これがいい」。自分たちのやりたいことや目指すものに向かって妥協せず諦めずに選択したかはまず自らのモチベーショ ンに反映され、上演される作品に如実に現れる。演劇は作りもののウソの世界だ。創る側が自分にウソをついてしまったら、それをお客様が信じることは難し い。戯曲も装置も衣裳も小道具も音響も照明も演出家も俳優も考えつく限りの選択肢の中から選び取って欲しい。

とはいえ、知らなければ選択肢を増やすことは難しい。今回上演された10の作品の中だけでも技術や発想を盗めるところはたくさんあると思うので、参加して観劇して情報交換をしたら、それをまた自分たちの作品に積み重ね、後輩に託していけばきっとどんどん良くなるのだろう。

 例えば空間の使い方について。平面的な使用をしている団体が多く、奥行きが感じられない。舞台には横だけでなく前後、ななめ、上下と空間が広がっているので立ち位置や出ハケ口、踏み台になるものを工夫するだけで見え方が変わる。

舞 台装置は作るのも持ち運ぶのも転換するのも大変だけれど、何も置かないことにする前に、黒パンチの床と黒幕の袖のままでいいのかを考える必要がある。共通 舞台で決まっているから、がスタートではなく。黒い箱がたった一つあるだけで、お客様にとって世界を想像する手がかりになるのだから。

 東北以外でも各地で学生演劇祭を開催しているが、「京都」だったり「札幌」だったり「名古屋」だったり「福岡」だったり、たいてい都市の名前を冠している。せんだい演劇工房10-BOXで開催される学生演劇祭には「仙台」とつくのが妥当に思う。ところが『とうほく学生演劇祭』である。実際に参加している団体は今年は4県だが、東北には6つの県がある。しかもひとつひとつの県が大きい。去年から思っていたけれど、事務局は東北の広さをなめている。それでも六県で説明会開き、10団体のうち半数の5団体が宮城県以外から参加している。演劇は簡単に持ち運べないのに!日程合わせてみんなで移動しなきゃならないのに!と思うと、それだけでもう感謝の気持ちでいっぱいだ。ありがとうございます。




○長谷川孝治氏

演劇という古い表現手段が現代においてもまだ生きている。そして、そのただ中におそらく「何故」とか「だから」という疑問と答えを持ちながら、揺れつつも舞台に立ち続けていることにまず敬意を表したい。

 お手軽に楽しめる「演技」や「お笑い」や「人間関係」がネットには溢れていて、それに流されながら生きていくのが一番楽で無駄のない生き方であるのは明白であるにもかかわらずである。

 10ステージを見ながら考えていたのはそのことだ。それは学生にとっても社会人にとっても同じ質を持つ設問である。

 観劇人口はどん どん加速度的に減少していて、例えば1960年代に隆盛をきわめた演劇鑑賞協会の会員数は大幅に減っている。現在年齢65才、すなわち全共闘世代の末期に いた者たちにとって「コミュニケーション」や「共同体意識」は生きることそのものを意味していた。つまり、対話が成立する公の空間を共有することは当たり 前のことだった。だから先鋭的な政治意識や問題意識をもつ劇団の公演を、首都圏から地方に向ける演劇鑑賞協会の活動は重要で時宜を得たものだった、

 しかし、現在、守るべき共同体自体がなんであるのかを誰も知らないでいる。スマートフォーンという名のプライヴェート空間を公の場に持ち出すのが普通になってきているし、公の正義を吟味するといった姿勢は希薄である。あるのはまったりとした快/不快で、行動の基準を決定するのは「なんとなく」という気分である。

 そして、誰も演劇を特別だとは思わなくなった。

 このような状況の中で、手間暇かけて舞台を創ることになんのメリットがあるだろう。演劇などなくても日本は別に困らない。地域の共同体だって別に困っていない。なのに何故。

 ここで劇作家別 役実氏の言葉を引用する「演劇は漢方薬である。劇的な効果はないが体質改善には有効である」生身の人間が素手でコミュニケーションを試みるというとても非 効率な手段がいつか必要とされる時も来るのだ。患部を直接的に叩く医薬品には必ず副作用が伴う。その副作用は素手で他者と殺し合うかもしれない社会を用意 しつつある。

 現在の演劇を巡る社会状況は決して良いものではない。しかし、演劇は社会のカナリアとして存在し続ける必要がある。

 さて、学生演劇祭の今後に関して少しだけ申し上げておきたいことがある。

 学生演劇は高校 演劇から脱却して欲しいということである。周知の通り、高校演劇とは「教育」の一環として成立している。したがって、そこには「相対評価」と「達成度評 価」が必ずつきまとう。「相対評価」というのは別な作品と比べてこちらの方が優れている。だから満足してもいいというものである。そして、「達成度評価」 というのは元々低レベルのものが、それなりに努力して少しレベルを上げた、だから評価しなければならないというものである。そのどちらも芸術とはなんの関 わりもない。芸術にとって必要なものは「絶対評価」でしかない。

 プロとアマの違いとは、それで食っているか否かではない。「絶対評価」を受け入れる覚悟があるかどうかである。多少にかかわらず入場料金を徴収し、観客の時間を束縛する行為にはきっと「絶対評価」がつきまとっていくのだ。

各団体に向けての講評

宮城教育大学演劇部『あなほりメリーの一生』

○鈴木拓氏

世界感がしっかりしており安心して観られる作品だったが、前半の展開の遅さやプロローグ、エピローグの創りに甘さを感じた。衣裳やメイクに女性らしいきめ細やかさが見られ好印象。舞台セットが一切無いのもこの脚本には適しており、コンクールスタイルの作品として良く考えられていると思った。物語の展開の遅さは観劇の集中を欠くギリギリで、中盤からメリーの特異性に気がつくと納得できる部分もあるが何か一工夫が欲しい。それ故、メリー役の鈴木さんの役割は大きく、言葉がない中でも素直な芝居は好感を持てたが、脇役の好演あってものだったと思う。女優陣の役つくり、劇中歌はクオリティも高くGOOD。モノローグ部分の台詞は一考の余地あり。もっと具体性を下げて、個々深く想像できるような芝居、台詞だとこの作品の評価が一気に変わる可能性を感じた。




○瀧原弘子氏

衣裳、小道具、劇中歌などが丁寧に愛情を持って作られていて、作品世界の土台をしっかりと支えていた。たまたま同じ穴に居ただけで共同作業を強いられ訳も分からないまま力尽きて命を落としていく辛く苦しい物語は、キュートなキャラクターと楽しい歌に包みこまれ、生きていくことの不条理さと喜びを描く寓話だった。もしこれが子供向けに創られた作品であったら、世界の橋渡し役としてストーリーテーラーは必要なのだと思う。メリーの最期の表情が力強く印象的だった。




○長谷川孝治氏

ツブの立った演技力がまずあった。俳優が「何故舞台に立つのか」という問題に答えようとする自覚があった。この何故演劇をしているのかという問いに繋がる態度こそ学生が考えるべき事柄である筈だ。演劇などなくても日本は別に困らないのだけれど、演劇をしている。それは何故なのか。ひたすら穴を掘るという費用対効果を絶対に望めないことをしようとする態度。そして、最も穴掘りに消極的な人物だけが生き残るという結末は、もしもこの芝居が「寓意」を意図したものならば、最後のメリーさんの含んだ笑みはなんだったのか、後を引く舞台であった。

岩手大学劇団かっぱ『充填箱劇』

○鈴木拓氏

ナンセンスコメディの作風でありながら、振り切れきれていない印象。作演出の吉田くんにはそれなりの作意があるかと思われるが、チーム力が発揮できていない。タイトル遊び、ゲームの世界感、古畑任三郎・マリックのパロディなどは手段であり目的にはなり得ないので、この作品、演劇を通じて何を伝えたいか、何をしたいのかをしっかりと考え、共有した方が良い。そんな難しいこと考えずに、ただ単純にバカバカしく楽しい演劇をしたいのであれば、単純にテクニックが足りない。ベタやスベリも高い技術が必要な演技であって、"なんとなく風に演っている"のはちょっと観るに堪えない。それでも90年代の素材を用いながら、徹底した緩い物語の展開は後半呆れから関心に感情が変わっていった。意図を持って創られたことは感じたので、そこは評価。そういう意味で第1稿の「箱を運び続ける」ことを目的にした作品も観てみたいと思った。




○瀧原弘子氏

発想はきっと良かった。100個箱を作れたら、まるでゲームのように世界は変わっていたかもしれない。上演までに妥協したり上手くいかなかったり変更を迫られたりした現実が、虚構であるはずの作品に表出する。そんなリアルは創る側も観る側も望んでいない。戯曲も装置も小道具も「もっとできるはずだった」と後から思うくらいなら惜しみない努力をしようぜ。台詞は順序良く間違えずに声に出すだけのものじゃない。驚いているふりをしている役者は驚いているふりをしている人にしか見えないのだ。




○長谷川孝治氏
滑るか滑らないか、笑いのセンスがあるかないか、合議制創作なのか孤独な劇作作業だったのか。あらかじめ示されたシノプシスのセンスの良さは参加劇団中でも群を抜いていた。しかし、「わたしたちの使命はスべり続けること」という覚悟が足りなかった。芝居を作る芝居という「アメリカの夜」の手法はとりたてて新しい手法ではない。それだけに新たなフェーズが欲しかった。例えば、積み重ねられたギャグが途方もなく哀しくなる瞬間を見せるとか、「芝居を作る芝居」からいきなり登場人物の「素」に戻る瞬間をさりげなく周到に見せるとか、もう一捻りの演出が見たかった。

演劇集団salad bowl『夢現』

○鈴木拓氏

女子高生と"なにか"との対話劇。作者には実際に"なにか"見えている感じがする、生々しくも鈍痛がする内容だった。芝居のいろはを知っている(意図しているかどうかは別として)印象があり、始まりかたから良く考えられている。脚本の力があると感じられ、ラストもあそこで終わってしまう潔さはセンスだが、もう10分頑張って欲しかった。回答めいた提示は必要ないと思うが、あそこで終わるのは"楽"でもある。たぶん作家としても現在進行形(過程)であるのではないか?と観たが、その先をチャレンジして欲しかった。舞台美術は空間全体を捉えてプランされていたと思う。場転の演出はもう少し工夫を。衣裳ももう少し頑張った方が良い。俳優の佇まいは悪くないが、少し単調な会話になるシーンが多いと感じた。リアルとフィクションの境界線をどこまで意識的に創作できるかが今後の鍵か。




○瀧原弘子氏

見事に、潔く、何も説明してくれない。部屋にいる男が何者なのか、これからどうなるのか。男は本当に何者でもなく、想像や決めつけをするすると逃れていく存在の置き方がさらに想像をかきたてる。メル友がストーカーに変化するシーンの畳みかけ方、鳴りやまぬ着信音は心理描写とあいまって恐ろしい。メル友からのプレゼントというカラフルなゴミの山のなかで不味そうにご飯を食べる姿は、欲しいものの形がわからないから手に入れてもわからないことの表しているようで痛々しかった。




○長谷川孝治氏
わたしは何のために生きているか、誰のために生きているか、そもそも生きていくことに意味はあるか。学校で無理解と不寛容と戦い、自宅でつかの間優しいヴァーチャルな会話をするために日々を重ねる。そして、説明はされない部屋にいる同年齢の男が一人。構造的には「現状の自分を否定するもう一人の自分」。演劇でしかできない自分の中の他者性との対話。作者の苛立ちが直接的に観客に響いてくる。テレビでも映画でも表現できない世界を提示する戯曲の構造は秀逸である。では、本来の自分とはどこにいるの?という問いには残念ながら答えずに結末を迎える。いや、それは結末ではなく新たな始まりですらない、まったりとへばりつく日常の繰り返しの始まりであったのか。シジフォスの神話を彷彿とさせて作家の今後が楽しみな舞台だった。

演劇ユニットかむとけ『花園会議』

○鈴木拓氏

60年代の時代設定で女学生の闇部分を描いた学園モノだが、時代背景、役つくり、身体表現などがいまいちアンバランスな印象だった。選曲や舞台装置としてのイスの使い方、身体表現などの構成はとても観やすく創られており好感。ただ現代や現在、社会とのリンク、外の世界が透けて見えてこないのが残念だった。少女漫画のようなキャラクターつくりは正直すんなりと受け入れがたく、途中まで解釈しようとしてしまい道筋を見失いそうだった。テーマの着眼点は悪くないので、時代背景や設定など見直すとより良くなるのでは?個人的には同テーマであれば現代の設定の方が深まる気がした。「この物語には本筋があり、4人がそれぞれ大なり小なり嘘をついている」ということは面白みがあるが、まったく本当のことが解らないのでなく、本筋に寄りそえる文脈があっても良いかと思う。




○瀧原弘子氏

花園の奥、少女たちだけの清く正しく美しく残酷な世界。現実も虚構も遥か遠くの出来事のように、ウソと秘密と嫉妬と憧れをキラキラと散りばめ、少女は少女のまま死んでいく…。

…という世界を舞台上に創りあげるまでには残念ながら至らなかった。残念だ!戯曲の段階でもう少し練り上げる必要もある。スローモーションや停止した身体を美しく見せるためにはもっと身体訓練が必要。美には人知れない努力が必要なのよ!椅子を使うことで舞台空間に奥行きと秩序を持たせた演出は効果的。少女漫画の様式美を解さないおっさんを圧倒する創り込んだ世界観をみせつけて欲しい。




○長谷川孝治氏
舞台を60年代末に設定したことに、現代という時代にビビッドに生きている女性性が見える。しかし、それはそれとして少女はいつの時代も無知である。と前口上で述べている。ならば、60年代末の時代背景のアクチュアリティーはどこにあったのだろう。おそらく極限にまで均一化してしまった社会に俳優の身体が「否」と呟いているのだと考えることはできる。演劇が成立する大きな条件(=敵の存在が明確であること)が見えない時代の違和感を、無知を武器としてもう少し掘り下げて欲しかった。無知は武器であると言い切るのならば。

宙の窓『compassion―共苦』

○鈴木拓氏

仕上がりにクオリティの高さを感じ、演出構成も脚本の意図を正確に読み取っていることが評価できる。所謂不条理劇の類いだと思われるが、45分間隙の無い仕上がりだったと感じた。クリエーションの過程で、男性俳優が降板、女性に交代したそうだが、これが功を奏している気がした。男性役を女性の観格好のまま演じたのも英断。質を変えることなく作品に新たな層を産み出している。塚本さんの好演に拍手。身体と言葉の距離はもう少し離れていた方が良かったかもしれない。小道具の使い方がGOOD。脚立や農業ザルなど身近にあるものをベースにしていることにより、水入れや赤布の存在感が増している。手を抜くところと力を入れるところのバランスが良かったと思う。照明の効果的な利用、開演の暗転中から水差しの音を聞かせるなど、演出的に更なる工夫求む。




○瀧原弘子氏

空間と小道具の使い方が抜群。透明なガラスの壺に注がれる水音の変化と水量の変化は、男の時間の経過と満たされない気持ちが満ちていく様が壺から溢れていた。「一万円札」として使われていた赤い布が開いたカバンから出てくるたび、女の心も臓器もあらわになるようでグロテスクでエロい。しかし女が赤い布をひらひらさせ戯れる姿は美しいのだ。脚立で作りだした高さもよかった。ラストで女が名乗るが、その名前が「誰」なのか知っているか否かで解釈がまるで変ってしまうので、前提条件は考える必要があったと思う。




○長谷川孝治氏

演劇の現場は、土木工事の現場を知性で切り盛りしていくことに似ている。インテリジェンスだけでは芝居は成り立たない。綺麗事だけでは現場が納得しない。不条理な様々なことを気合いで乗り切る体力が必要なのだ。おそらくこのユニットにはそれがある。中心にあるものは空虚であるという戯曲の構造を引き出した演技力は見事である。照明もセットも戯曲を正確に理解している。演出家の仕事は、作品創作にだけあるのではなく、その作品を成立させている周りの芸術環境にもコミットしていくことだと明確に自覚した時、さらに前に進めるだろうと思う。

青森大学演劇団「健康」『AAA』

○鈴木拓氏

身体と発生に現代風なリアリズムを感じる自然体の芝居、村下くんの好演など見どころのある作品。個人的には題材が適していないと感じ、台本選びを考えた方が良いと思った。男4女2という座組みは武器なので、それを活かした青春群像劇の方が良かったのでは?設定や配役に無理がある箇所が多々見受けられ、雰囲気は醸し出しているもののクオリティが低い。台詞の掛け合いは軽妙で、比較的観聞きやすかったので、もう少し深いテーマを扱って欲しかった。ラブコメディを追求するなら振り切れ感足らず、演出に工夫が必要でその力量は足りないと感じた。こういった芝居だと舞台転換、、照明、小道具の使い方は武器になるので、ただやるのではなくテンポを作る一助とすると良いと思う。ラストのダンスは蛇足。とはいえ主演の二人の幼なじみ感や、すれ違い漫才(事実そうだが)、田舎の風情や、個性ありそうなキャスト陣は魅力的。




○瀧原弘子氏

冒頭の散らかった男の部屋に女が帰ってくるシーンが何も語られないうちから場や二人の関係がにじみ出ていて印象的だった。俳優もそれぞれが「こういう人居そう」感を醸し出していた。ただ、観客を巻き込むチャンスはいくらでもあったのに、それを活かせなかったことが悔やまれる。客席との物理的な距離はいつだって同じだけれど、上演中はどんどん距離が変化する。最後まで諦めずに観客の心を鷲掴みにきてほしい。衣裳ひとつで心境や状況の変化をもっと表せるので、ありものを使うにしても早替えが大変でも工夫が必要。メイクも!髪形も!だってアイドルだし!




○長谷川孝治氏

リアリズムは時代と共に変遷する。社会主義リアリズムと現代のリアリズムは全く別物で、演劇団健康の演技は最先端のリアリズムに支えられている。何故、自分たちの演技がそうなのかを彼らは自覚していないかもしれない。しかし、いつか何故わたしたちの演劇ベースはこうなのかという疑問にぶつかるだろう。そして、その疑問に正面切って挑んだ時、彼らの演劇は劇的に変わるだろう。わからないままでいることと自覚していることはまるで違う。本当を知ることは痛いことだが、そこを通過しないとならない段階に来ているのではないだろうか。

劇団うさぎ112kg『あおなご解放論―From: Ms.Clambon』

○鈴木拓氏

ウェルメイドな完成度の高い作品。5人姉妹の関係を丁寧に描いており好感が持てる。亡き母を中心に展開するが、よく45分間で関係性と物語の起伏、次女&三女の感情、母の存在をまとめたなと感心した。風格すら感じられ、良く悪くも落ち着いている感じが、今後への期待半分不安半分。よくまとまっているだけに、現状に安泰せず果敢にチャレンジした作品も観てみたいと思った。配役はお手本ともいえる出来。特に嶋貫さんと高橋さんから目が離せなかった。出捌けの所作、台詞の言い始め、早替えのためのブリッジの使い方、現在と過去のタイムチェンジの演出効果など、気になることは多々あるが、それも全体的に質高く仕上がっているが故に気になるのかも。遺影、母のビデオなどはなくてもよいのでは?郵便物の差出人、母の死因など伏線の扱いはもう少し丁寧に。質は高いが、よくあるジャンルでもあるので今後の個性創出に期待。




○瀧原弘子氏

戯曲の完成度も公演としての完成度も高く、劇団としてすでに活動している力を感じた。姉妹が部屋にぎゅうぎゅう集まって賑やかなシーンと無人のシーンの落差は、母親の死だけではなくいずれ年を取りばらばらになり静かになってしまうであろう地方都市の「家」が表されているようで苦しかった。キャラクターがうまく描き分けられ、俳優もいきいきしていたからこそ、もっと人物の多面性が出されていたらひとつ深い物語になったのではないかと欲が出てしまう。45分とは思えない充実した内容だった。




○長谷川孝治氏

5人姉妹のウェルメイドプレイ。それぞれのキャラクターを脚本家はきちんと書き分けており、応じた俳優も脚本に書かれたキャラクター以上の役柄を演じていた。例えば、あて書きという脚本の書き方は、俳優にどれだけの抽斗があるかということと脚本家に他者に対するどれくらいの想像力があるかにかかってくる。今後、同じメンバーでの公演を続けていくためにはそこが課題になってくるだろう。

青森公立大学学生劇団初雪座『Bank Gang Lesson』

○鈴木拓氏

既成の脚本を用いてのコメディ作品だが、その良さ、強いていえばその根拠などが感じられなかった。まず、男役を女性が演じる(またその逆もそうだが)などは、作品の本質的な意味合いに効果していなければ極力避けるべきだと思う。特に技術や経験が未熟な学生演劇では、作品選定の時点で熟考すべきだと感じる。舞台での立ち方、台詞の発生、ミザンス、視線など、お芝居を創る上で基礎が解っていない。これらの知識や技術は今の時代は直ぐに学べる環境があると思われるので、まずはしっかりと基礎をみんなで勉強すると良いと思う。また全体的に演出が行われていない(もしくは演出の意図が明確でないor伝わっていない)印象を強く受けた。これからどこへでも向かえる状態だと思うので、本当にやりたいコトをしっかりと見極め、そのために必要な知識、技術、経験を得て欲しいと思う。




○瀧原弘子氏

まず戯曲をテキレジする段階で、自分たちが何をしたいのか何を目指しているかを念頭に置けていただろうか。長机だけの銀行のカウンターや銀行強盗の衣裳、バナナなど、チープでシュールなコメディの種はそこかしこに見えたけれど、中途半端感は否めない。冒頭、暗転あけにすぐ会話が始まってしまったことで、客席は舞台から置いていかれてしまった。間は怖いものだけれど、無音の間に観客は情報を収集し整理し想像し妄想する。大事な時間だ。




○長谷川孝治氏

残念ながら演劇を、舞台を創る、フィクションを成立させるという意志が希薄だった。日常生活の中で面白かったり、意外だったりすることは多々ある。しかし、それを舞台にそのまま持ち込んでも演劇にはならない。既成の脚本だが、脚本の選び方にもセンスが問われるべきだろう。そして、舞台に上がるための基本的な発声方法と俳優の意志が感じられなかった。フィクションを創るのは実人生を生きるように面白いのだと気づけばこの劇団の伸びしろは出てくる筈である。まずは基本から始め、多くの他の舞台を観ることがその次に繋がるはずだ。

東北大学学友会演劇部『金魚を握る』

○鈴木拓氏

全編モノローグ調で進む会話劇。シェアルームを舞台に現代の若者が抱える葛藤を描いている。映像的な印象を受け、演劇(舞台上)で行われる作品としては疑問があった。会話や対話が行われず、対話によっての変化が生じないことが原因か。ただ、現代のリアルという面ではそれはそうで、比較的新しい表現なのかもしれない。俳優の質は悪くないが、その良さを感じられる作品ではなかったか。渡邊さんの自然体は好感を持てるが、いまいち葛藤が見えてこない感じがした。照明、音響は効果しておらず残念だった。演劇(舞台化)は「抽象的な戯曲(言語)を具象化する行為」であり、十分な説明が出来ない、もしくは根拠の乏しいきっかけは逆効果になる。とはいえ、女性的な視点、対話のない進行、音楽の使い方など、新しい感性を感じるところもあり、個人的には突き詰めて欲しいと思った。




○瀧原弘子氏

戯曲の完成度は高かったと思う。「わたしはこういう人、あなたはこういう人」と決めつけて衝突せず、声を荒げることなく、自分が傷つかないためだけの優しさで他人を傷つけ、謝りながら去っていく人達。いるいる!おしゃれで小奇麗なシェアハウスとは裏腹に人間の醜さが露呈する様は秀逸。ただそれを演劇作品とするには、舞台空間や俳優、音響や照明がどんな効果を舞台上にもたらすかをもっと知り味方につける必要がある。明りの差し込む向きやスピード、音の聞こえる方向が変わるだけで世界は劇的に変化するから。




○長谷川孝治氏

登場人物の人間関係説明はできている。しかし、他者を認める前提である「対話」がなかった。独白はあり、その独白は現在社会の問題点も孕んでいるのだが、独白の唯一の存在理由である「美しさ」に欠けていた。演出行為は観客を騙すことではない、もっと言えば俳優を信じていない演出行為は演劇には必要がないのではないだろうか。自らの存在を丸ごと舞台に上げて逃げも隠れもできない俳優を、とことん信じるという愚鈍な行為も演出には必要なことなのだと思う。

プリンに醤油『おじゃまんが』

○鈴木拓氏

芸達者な女優陣によるコント仕立ての作品。繰り返される自殺を結末としたシーンが、不条理劇の要素として機能していたと思う。「コメディとシリアスの両立をやってみたかった」ということだったが、前半のシュールなシーンを繰り返す事に徹底しても良かったのではと感じた。それも役者の力量があってのことで、特に外澤さんの演技は評価したい。本演劇祭で随一の間合いと反射神経を持っている。小道具のチープさはコントらしいと言えばらしいのだが、もう少し凝って欲しいかとも思った。が、舞台美術は最低限且つ十分に解る芝居になっているので問題ないかな。。作品の根底にある、「納得いかない人生のリセット」を自殺で表してしまうことには、シュールさに加えて若い世代の苦悩も描かれていたと思う。




○瀧原弘子氏

様々なシチュエーションで繰り返される再会と先輩の自殺。コントとして設定もキャラクターもよくできていて、次に起こることを期待させてくれる。繰り返しの中で少しずつ深みが明かされていくのかと思いきや、最後に繰り返される世界の原因や先輩の抱える気持を説明してしまった。それは「演劇も目指している」ことを明らかにしてくれた部分だったが、

演劇とコントをわざわざ分けてしまったように見えた。観客の想像力をもっと信じたらいい。すっとんきょうな設定の世界を納得させる俳優の瞬発力、安定感、動きのキレと力強さが素晴らしい。




○長谷川孝治氏

演劇かコントか、俳優か芸人か、現代社会に問題意識を持っているか否か、45分間笑いつつ思いがぐるぐると回る。ラストに「これは演劇です」という説明を持ってくるのは不要。観客に阿ることはない。突き放して後は自分たちが考えて下さいでいっこう構わない。それが覚悟というものだ。3人の俳優のレベルは参加劇団中最も高いのではないだろうか。シリアスなドラマも難なくこなすだけの力量がある。コメディーとコントの違いを真剣に考える時間を持って欲しいと思う。それができる劇団である。