前半の印象としては、独特な世界観と空気、そして役者の皆さんのコミカルな動きと台詞。教育テレビあたりで子供向けにやってそうだ・・・なんて思っていました。
観客は全員大人なのにこの内容はどういう意図なのだろう、この先どういう展開があるのだろうとワクワクしながら観ていましたが、なかなかストーリーは進まず、同じことを永延と繰り返しているので正直退屈してしまいました。
ストーリーが突然動き出し、リーダー格のキャラクターがバタリと倒れて、一切動かなくなると、その後もどんどんキャラクターが倒れていき、強く恐怖感を覚えました。
「仕事をするんだ!」というようなセリフを残して倒れていくキャラクターを見て、もしかすると過労などが問題となっている現代社会への警鐘を込めたメタファーなのか、などと考えていると最後に「あなたは何に見えましたか?」と完全に結論を観客に(やや乱暴に)丸投げされて、拍子抜けしたような感じでした。
前半は子供向けのようでいて、後半はブラックでとても子供には見せられない仕上がりとなっており、いよいよどの客層を対象に作成したのか分からなくなってしまいましたが、確かに私も「現代社会への・・・」と「何かを見た」ので、まんまと作者の手中を転がされていたのかもしれません。見る人を試す。そんな不思議な演劇でした。
音響と呼べるものは使用されていませんでしたが、登場キャラクターはオリジナルの歌を終始歌っていました。キャッチーで世界観にぴったりなあの曲を作詞作曲したのだとすればそれはかなりの労力が掛かったでしょう。すばらしいです。ただ、BGMなどが入っても楽しいのではないかなとは思いました。(後半のブラックさを考える楽しさはそもそもいらないのかもしれませんが)
衣装に関して気になった点が二つ。リーダー格のキャラ(ピッピ?)が頭に巻いていた「祭」
の文字の入ったバンダナ、と髪に付けていたのであろうカラースプレー。
前者はあのファンタジーな空間における唯一の文字で、人間(人類)の存在を思わせました。彼らが人間の文字を使用しているとは考えにくいので、どうも浮いているように感じました。(キャラクターの明るい性格にはピッタリだったとは思いますが)後者に関しては、飛び跳ねたりすると髪から粉のようにカラースプレーと思われるものが舞い散ったり、衣装が段々と緑色に染まってきたりしていたので、ほかの手段で染るか、カツラもしくは地毛のままでいいのではないかと思いました。(後日伺ったところ、カラースプレーではなくチョークのようなものだそうです)
独創的なイメージを具現化し、不思議な感覚で終始し、さらには見る者を問う。この作品は、本演劇祭においてひと際異彩を放っていました。個人的には好きですが、客層を意識して作ると飽きずに観られるのではないかと思いました。
「充(10)填(ten→10)箱(box)劇」→「10box」だそうです。
気が付きませんでした。面白いタイトルですね。驚きました。
ストーリーに関してなのですが、何をする話なのかが理解できず、オチも良く分からなかったので、突然始まり、突然終わったような印象になってしまい残念です。箱が多数(51個)あり、様々な演出方法があったと思うのですが、あまり上手に使えていなかったように思えましたし、タイトルのためだけに存在しているようにすら感じました。箱の面白い使い方、魅せ方がメインの作品で箱がたくさん動くような舞台なのかとタイトルからは予想していたのですが。
古畑任三郎やマリックなどのモノマネ?のネタが面白かったのですが、脈絡がないというのでしょうか、作品とは独立している面白さで、一発芸の領域でした。
あえて滑ったことを役者にさせる滑り芸的なことが多用されていたような気がします。意味があるのならそれも面白くなると思うのですが、場面を転換させるタイミングで挟んでおりそういうシステムとしての機能のようで、ちょっと役者さんが可哀想でした。しかし、それを全力でやりきった役者さんの精神力には感服いたしました。
要素要素が中途半端でかつ関連性が薄いのでストーリーとして成立していない印象でした。何がしたいのかというコンセプトを明確化して(例えば箱の面白い使い方を追求するとか)、それを実現すべく作品を構成していけばバラバラだった面白いパーツがパズルのように組み合わさって魅力的な作品に仕上がると思います。
「フード理論」という言葉があります。料理研究家の福田里香さんが提唱している理論で、その理論によると
1 善人(幸福そうな人)は、フードをうまそうに食べる
2 正体不明者は、フードを食べない
3 悪人(不幸そうな人)は、フードを祖末に扱う(まずそうに食べる)
人気漫画「進撃の巨人」ではこの理論をもとに巨人の設定をしたそうです。
この作品にも主人公の女の子の食事風景がありますが、どこか作業的でおいしそうではありませんし幸福そうには見えません。男の子は食事をしていません。とても印象的で好きなシーンです。作者さんはどこまで意識していたのでしょうか、気になります。
さて、鑑賞中2つの点が気になりました。
男の子がなんとなくナヨナヨしていて少し女の子っぽいところと、男の子はおそらく女の子の自我の象徴のような存在だと想像されるのですが、なぜ同性ではなく異性なのだろうという2点。
作者さんのコメントによると元々は二人とも女の子にするはずだったそうで、納得しました。もう少し男の子が男の子らしく振舞えればよかったとは思いましたが、同性ではなく異性にしても、現実的に物事を見る男性と希望的に見る女性。いらないものは捨てたい男性と捨てられない女性という構図にも見えて意外とアリでした。
ストーリー全体としては役者が二人にも関わらず、スムーズに進んでいき大変魅力的でした。また、二人が沈黙するシーンがありましたが、その空気感が絶妙でした。
作中、無害だと思っていたメル友のおじさんから携帯に大量のメールが送られてくるシーンから恐怖感が出てきて、物語は起承転結における「転」に入ったと思われましたが、結局「結」は描かれることなく私たちの想像に委ねられたことが残念な気もしましたが、安易に結末を描いてしまうと途端に安っぽくなってしまう可能性もありますし、あえてラストを描かないことが作品に深みを与えていたのでしょう。
バレエのようなダンス(コンテンポラリー・ダンス?)が印象的な作品。
舞台上に存在するものは4つの椅子だけにもかかわらず、舞台上の世界が目に見えるようにも感じられました。音や衣装での世界観の構築が巧みでした。
特に衣装はすべて作成したとのことで、あの完成度は驚きです。
音に関しては、1960年代という時代設定に合わせるのではなく、場面の雰囲気に合わせて音楽を選んだとのことでした。たしかに、アコーディオンの曲などが使用され1960年より古い印象の曲が多用されていましたが、あのドロドロとした不思議な空気感には非常に合っていました。
主人公の説明口調で展開されていくストーリーはラジオドラマのようにも思えましたが、演劇である必然性を成していたのはあのダンスと、登場人物同士が手を近づけたり離したりながら舞台を動き回る動作でしょう。おそらく心の距離を表現していたものと思われますが、不可視な感情をあのような形で見えるものとし、ややもすれば動きが少なくなりがちなシリアスなストーリーに動きが生まれ、非常に印象的な演出です。
しかし、どうもストーリーにはついていけませんでした。
私が男性だからでしょうか、女性的な嫉妬の感情の変化が理解できませんでした。
あの流れからなぜ同じ学校の生徒を殺害しようという心理にたどり着いてしまったのか、なぜ嘘をついたのか、説明しすぎると安っぽくなってしまいますが、それでも私には説明不足にも感じられました。素手で絞殺してしまうなど、細かいところにリアリティを感じられなかったため、完成された世界観とのバランスに困惑しました。
役者の皆さんの演技は表情豊かで魅力的でした。演技経験のかなり少ない方もいらっしゃったそうですが、とてもそうは思えませんでした。12月に同じ題名で公演をするそうなので、そのころには益々演技が上手くなっているのだろうと、部外者ながらワクワクしています。
AAAってなんだろうと思ったら、
「青森が生んだ、アイドル、あーちゃん」の頭文字。
いや「アイドル」のイニシャルって「I」じゃないんですか、っていうツッコミは禁止(メンバー談)
さて、ストーリーは
「アイドルを目指し上京した少女が上京するも夢破れて地元に帰る。しかし、夏祭りにて昔の恋人との出来事をきっかけにもう一度夢に挑戦する」
なんたる王道。今回の演劇祭において逆に珍しいほどストレートな内容でした。
しかし、歌やダンスのシーンの質が残念でした。
ラストシーンのダンスを見てしまうと「やっぱりアイドルは厳しいのでは、」と思わざるを得ませんでした。あらゆる物事は「やりたいことと、できることのせめぎ合い」だと思うのですが、もっとできることは存在したはずなのに、このストーリーではそれを活かしきれていない印象を受けました。
座組の中に歌って踊れるアイドルがいて初めて可能な演劇だと思います。
この作品で印象的だったのは本物っぽさです。
特に夏祭りイベント進行の二人はちょっと異常なほど本物っぽかったです。
演技をしているというよりは本当の夏祭りのイベントの動画を流しているような、独特のグダグダ加減とキレのなさ。高校の学校祭の進行もこんな感じだったな、と思いながら観ていました。演劇祭終了後の交流会において、お二人とお話ししましたが、本当に「そういう」人でした。あの舞台上にいた二人は普段の自分をそのまま舞台上で表現していたことになりますが、普通、舞台にあがると緊張だったり興奮だったりで普段の自分とはかけ離れてしまいそうなものですが、あれだけ自然体であの場に立てていたことは素直にすごいと感じました。
「宙の窓はどうだった?」と聴かれたので、「綺麗でした」と即答しました。
一万円札を赤い布で表現する演出が特徴的でかつ、魅力的でした。
舞台上の役者さんは2人で、会話がメインで進んでいくため、動きに乏しくなってしまいそうなものですが、布を使って遊ぶ?というか、いろいろと粘土細工のように動かしてみることで、会話劇にも関わらず画がとても活き活きと動いていましたし、赤い布は暗い会場においてアクセントになっていて綺麗でした。物語の後半、バックの中から次々と布が出てきて舞台を赤く染めていきましたが、照明も使わずに舞台の色が変わっていく様子に感動しました。
ストーリーはアイデンティティ論、私とは何者なのかということをテーマにしており、抽象的でやや難解でした。特にラストシーンの台詞「塚本恵理子よ」は解釈に困りました。
それが演出さんのお名前であることは知っていたのですが、俳優としても参加されていることは観劇当時には知らなかったので、不思議な印象を持ってしまいました。
前提として「塚本恵理子さん」とは誰なのかを知っておかないと理解できないというのはいささか不親切な気もしました。私はその方が誰なのか後からを知ることができて、納得できましたが、最後まで誰なのか良く分からないまま見終えてしまうお客さんもいたはずですから。
演出家賞がこの作品のために審査員達によって急遽増設された、とのことですが納得です。既成台本なので、脚本賞は与えられないにしてもあの演出力に対して評価を与える賞を設立したくなる気持ちは良く分かります。それほど演出力が飛びぬけていた作品でした。
解放論という難しそうなタイトルとは裏腹に明るいコメディ作品で終始楽しく鑑賞できました。ただ、単純に笑えるコメディではなく、親と子、姉妹間の人間関係、流産・妊娠などシリアスなテーマが込められており、作品全体が重くなりすぎないようにコメディが中和していました。
特によかった点は空気の切り替えです。一度重い雰囲気になると中々明るいコメディに戻しにくくなるものだと思っていましたが、台詞・仕草・照明・音などあらゆる手段を使って場面の空気を上手く変換していたのが印象的でした。
キャラクターが非常に個性的で、活き活きとしていたのがこの劇の魅力でした。もともと作品が存在して、それに合うように役者さんに働きかけるのではなく、役者さんのためにキャラクターの描き分けがなされたのだろうと思います。例えば他の団体がこの脚本を使って舞台を作ろうとしても、うさぎ112kgの完成度に達することはまず不可能かと思います。舞台中央部にかけられていた遺影が個人的にはとても好きです。
お母さんのあの笑顔?から生前のお母さんの明るさや活発さがうかがい知れてお母さんはあの舞台上にいなかったにも関わらず大きな存在感を常に放っていました。お母さんは既に亡くなっているはずなのに、未だそんな気がしない。そんな姉妹たちの気持ちもあの遺影によって観客も共感できたのではないかと思います。
唯一残念だったのは時間でしょうか。
45分では短すぎました。3時間は平気で見ていられましたし(笑)、途中話が急ぎ足になっているような印象も受けました。加えて、ラストシーンもまだ物語中盤のような雰囲気でした。全体の通し練習をしたら制限時間をオーバーしたので短縮したと伺いましたから、脚本家さんももっとやりたいこと描きたいことが多々あったのではないかと思います。
ぜひ一時間でも二時間でも使ってやりたいことを全部詰め込んだ
「完全版:あおなご解放論」をやっていただきたいです。絶対に見に行きます。
シュール【(フランス)sur】
1.≪名≫「シュールレアリスム」の略
2.≪形動≫表現や発想が非日常的・超現実的であるさま。
大辞泉より
さて、とてもシュールな演劇でした。
もともと結構な長さのある既成作品を半ば無理やり45分に凝縮したせいでストーリーが異常に高速で強引でした。また、登場人物の台詞もかなり独特で、会場は異様な雰囲気とちょっと他の作品で見られる笑いとは違う種類の笑いに包まれていました。
上にも書いたように非常にシュールで、このような作品は人生初でした。ありえそうでありえない会話が繰り広げられており、最初はあっけにとられていましたが、だんだんと面白くなってきました。
シュールな笑いを狙って作られた作品ではないですが、狙ったのかどうかはというのは大きな問題ではなく、結果がすべてだと思います。私は楽しかったです。
私は完全にこの作品に心を奪われまして、2回鑑賞したほどです。
しかし、驚いたことに、2回目は会場全体であまり笑いが起きませんでした。
一回目との違いは3つ。台詞・出演順・観客です。
台詞は1回目と2回目で細かい部分が変更されていました。出演されていた役者さん曰く、違和感のある部分を変更したそうです。まずここでシュールさが大幅になくなりました。出演順に関してはDグループということで、うさぎ112kgの「あおなご解放論」とセットでした。1回目は後、2回目は先でした。「あおなご解放論」は今回の演劇祭において飛び抜けた完成度でしたから、その後ということが1回目のシュールさを際立たせていました。そして当然ですがお客さんが違いました(私を除いて)。これが実はかなり大きいと思っています。自分自身も経験があるのですが、お客さんによって笑いが起きるタイミングや質が大きく異なります。1回目は笑える空気のようなものができていました。
ほとんど同じ芝居でも全く観客のリアクションは異なる。そのことが不思議でしたし、興味深いとすら感じました。
色々な意味で演劇(あるいはパフォーマンス全般)の難しさや奥深さをこの作品から感じました。
「面白かったのかどうかが分からない」というのが感想です。
シェアハウスを舞台として恋愛や人間関係をテーマに描かれた作品ですが、複雑かつ難解で台詞の量も多かったので、私は状況の処理が追い付かず考えているうちにストーリーが進んでいってしまいました。
画に動きが無かったことも残念です。映像作品ならカメラワークで動きをつけることが可能ですし、役者の細かな動きも伝えることが出来ますが、舞台の性質上ある一定の方向から少し引いた画でしか見ることが出来ないのでどうしても飽きが生まれてしまいました。話の質的に小説向きではないかと思います。少なくともこのストーリーで何かを伝えるにあたって演劇というメディアは有効ではなかったのではないでしょうか。
舞台装置や小道具は数が多く、質も高かったですが、活かしきれていなかったように感じました。例えばテーブル。色は綺麗に塗装され、中央部はアクリル板になっているということは「知って」いましたが客席からは見えませんでした。お客さんに伝わっていないことが、もったいないというか、歯痒いという思いでした。(意図が完全に見える演劇も寒いですが)
見ている人に伝わるように舞台を作っていくこと、あるいはどのように見えるのかを意識することが重要なのかもしれません。
なによりも役者さんでした。あれだけ濃いキャラクターを存分にやりきることのできる3人の役者さんの技量がすさまじかったです。審査員方が「役者というより芸人に近い」と仰っていましたが同感です。台詞だけでなく言い方から仕草から面白いというのは芸人的な才能があるのだと思います。なろうとしてなれるものなのでしょうか・・・
私事ですが先日大阪で吉本興業のお笑いライブを見てきました。なかなか面白かったですが、この作品の笑いのレベルはそれに引けを取らない完成度でした。
ストーリーはドタバタコントのようでいて、伏線回収や構成がしっかりしていて後半に行くにしたがって、さっきと同じようなシーンにも関わらず見ている側からするとシリアスに見えていくという流れに感動しました。
一本のコントを単一の設定で40分以上やるとどうしても飽きが生まれると思いますが、パラレルワールドというSF的発想を用いてその問題を解決しつつ、物語に深みを持たせる手法は斬新でした。上に書いてある通りいくつかのパラレルワールドにおいて同様の台詞が用いられることで、最初は単にギャグとして面白い台詞が、繰り返されるうちに不思議な印象を与えていきました。このパラレルワールドという概念を用いた作品いわゆるループものはSF系の小説・マンガやアニメなどで数多く見られますがコメディ、それもかなりコントに近い作品で用いられるのは珍しいのではないでしょうか。
ラストシーンにおいてパラレルワールドの原因の説明がなされますが、説明過剰感は否めませんでした。作品が分かりにくくなってしまうことを避けるためだと思うのですが、同一の台詞等から大多数の人があのシステムに関して理解が出来ていたはずなので、わずかなヒントでも十分に伝わったのではないでしょうか。
とはいえ、ラストシーンの台詞はメッセージ性に富み
「幸せとは何か」「どうしたら幸せになれるのか」
というテーマを提示し、単なるコメディ作品に終わらない、演劇祭の大賞にふさわしい作品だと思います。
(H.27.9.24 浦川様)